■柔肌 skin■
女の名前を雪恵と言った。名前のとおりの雪のように白い肌を思い出しながら、敗北の二文字が頭の中を巡る。
「なんだって、俺ともあろうものが……」
雰囲気はとてもよかった。ルックスも喋りも合格点以上。酒のせいであるかのように軽く触れて透視んでみたところ、こちらがバベルの職員で医者であることも知らない、金にも地位にも下心のない「可愛い」女だった。それを。
大きく溜息をついてその酒臭さにげんなりしながらも、マンションの扉を通りキッチンからペリエを取り出して瓶から直に飲む。そうしながらコート姿のまま今日は二度締めたネクタイをもう一度緩めながら居間に入った時だった。
真っ暗な居間に、賢木は微妙な違和感を感じながらも、既に手はスイッチを押してしまっていた。
「よう」
明るく照らされる部屋の中、赤みがかったくせっ毛にコート姿の葉がソファに座っていた。
「……またお前か」
違和感の正体はこれか。部屋の中は荒らされたりしていないようだが、人ひとりそこにいれば違和感も感じるというものだ。
「またって言うなら、そっちこそまた居間の窓のカギが開いてたんだけど?」
「せめて暖房くらいつけろ」
寒いだろ、と続けようとすると、葉がコートのポケットに突っ込んだままだった手を出して、賢木へとかざした。
「?」
立ち上がって近づいてくる葉と賢木の間に挟まっている妙な緊張感。いつもはからかいながら賢木のところにやってくる葉の目が、今日は笑っていないことに賢木ははじめて気付いた。
「ニーサン、女の匂いがするぜ?」
「あー、……」
さもありなん。しかもいつも葉が賢木を訪ねてくる時間帯からずっと賢木の部屋にいたと仮定すると、自分がしていたことと比べてそれはひどく寒々しい想像で、賢木は言い訳するタイミングを逸してしまう。
「……」
葉は無言だった。と思うと。
ガシャン!と居間の窓が大きく開く。そうしてあれよあれよという間に賢木の体は宙に浮き、窓の外へと投げ出された。
「うわっ、おいっ!!」
賢木を追うようにして葉もまたベランダから宙へと飛び出て、二人はマンションの屋上の高さまで浮上する。
「おい、下ろせ!」
「ニーサン、俺を置いて二股?それともその下半身はいつだってタコ足配線なわけ?」
「やめろってば!」
賢木にとっては恐怖心より理不尽だという思いのほうが強い。葉さえ、こいつさえいなければ。
「俺が……」
葉の剣呑な顔に想いをぶつけるように、賢木は叫ぶ。
「俺が今日何もしなかったのは、お前とのこととは何の関係もないっ!」
女の名前は……たしか雪恵といったか。まるでテレパスでもあるかのように賢木にとって楽しい話題をひととき提供する、居心地の良い相手だった。
『体は正直だから』
しかるべき場所へと二人合意の上で入っておきながら、男としてのマナー違反を犯した賢木のネクタイを玩びながら、にっこりと笑って告げた、本当にいい女だったのに!
「……エ、何もしなかったの」
はっとするが、既に遅い。暗闇の中で葉が三日月のように唇を笑いの形に曲げるのが見えた。
「もしかして何もできなかったの?ニーさん、男としてやばくない?」
「~~っ!誰の、せいだと……!」
「俺のせい?」
葉の声をかき消すように突風が吹くが、ただ服がはためくだけで、葉の能力で高所に浮かされた体は安定している。
「目の前の据え膳食えなかったのは俺のせいって、うぬぼれていいの?」
「……知るかよ」
そっぽ向いた賢木の頬に葉の手が触れる。寒い部屋で待っていたせいなのか、いつもよりずっと冷たいのに、触れた場所から熱くなっていくのは何故だろう。
「じゃ、いいよ。ニーさんは黙ってて」
「おい?」
珍しく引き下がったかと思ったら、葉が賢木の体を腕で引きよせるように抱く。異論を申し立てる暇もなく、再び体が宙を下降していき部屋の中へと二人は戻った。
戻るなり、葉が頬を寄せてきて、耳元で囁く。
「……体に聞くから」
不思議と甘い声音に、酔いがまた戻ってきたような気がする。
何故なら足下がふわふわして、瞼が少し重くて、体が熱い。これはきっと、そう、まだ抜けきっていないアルコールのせいに違いないのだから。
<終>
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お題:157. 二股 51. 突風 159. 恐怖
需要があるとは思えない二人の組み合わせをこんな風にえんえん書き続ける自分に対して一体誰得?と聞いてみたい感がひしひしと。葉にはもうちょっと狂気を孕んだ感じにしたかったのですが、結果は見てのとおりです。
賢木受けは俺得!って人がいたらぽちっと押してやってくらはい。