■風と鼓動 Chilblain■
山奥の温泉宿に吹き付ける風は冷たく尖っている。
渓流を見下ろせるベランダへと出ると、兵部の浴衣の内側にまで冷たい風が入り込んできた。
何ともなしに空を見上げると、都会では決して見られないであろう星の群れがまばゆく煌めいている。星々の並びはすっかり冬の星座だ。
「……雪が降るのかな」
肌を切る風の鋭さからして、いつ雪が降りだしてもおかしくないように思えた、がすぐに考えを改める。
「な、訳ないか。雲も出てないのに」
星々がアピールする空には雲は出ていない。昼間も天気が良く空気が澄んでいたから、放射冷却現象による寒さかもしれない。
次第に指先の感触がピリピリとした冷たさと痛みの中間のものに変わってくる。口元に両手を運んで小さく息を吹きかけると、後ろでベランダの開く音が聞こえた。
「少佐」
真木の声だ。部屋を抜け出す時は裸ですっかり寝入っていたのに、今はきちんと浴衣を着て手には半纏を持っている。
「起こしてしまったかな、ごめんね」
「そんなことより、冷えますよ」
振り向かずに会話していると、真木は兵部の横にやって来た。長い髪を冷たい風に嬲らせている。
「風が出てきましたよ」
「君が護ってくれるんだろう?」
少し傲慢気味に言うと、真木が少し苦笑する気配がする。と、ふわりと慣れた質量が肩にかけられる。見ると、兵部が普段使っている半纏だ。
「よくこんなもの持ってきてたね」
ほんの一週間ほど逗留するだけの温泉宿なのに、道理で荷物が多いと思った。襟元がほつれているのは、これを着ているとしょっちゅう桃太郎にいたずらされているからだ。
「少佐は、自分の痛みに対して鈍感ですから、寒さに対しても同様だと思ったので」
「鈍感って……」
その通りかもしれないが、真木に言われると腹が立つ。なにか真木をやりこめるいいネタはないものか。
「――僕が痛みに強いのにつけ込んで無茶させたのは誰さ」
やれやれ、とわざとらしく腰をさすってみると、真木が一歩退いた。
「あっ、あれは、もとはといえば少佐のほうがねだってきたんですよ!?」
そう言われれば、そうだったかもしれない。もっと、真木。激しく、熱く、もっと頂戴、もっと――そんなことを言った気もする。
だってそう言わないと真木は遠慮を盾に最奧まで入り込んでこようとすらしない。でもこちらとしては、理性でコントロールされ押し殺されたセックスには興味がないのだ。激情に押し流されるようなのがいい。痛いぐらいでもいい。でないと、全てを忘れることができないから。
あたふたと手をばたつかせている真木の懐に入り込むと、その首筋に頭をすり寄せる。真木が両腕で兵部をゆるく包む。
「どうしました?」
「抱いて」
「はい」
明朗な返事とともに背中に廻された手が強く兵部を抱きしめる。
「……そうじゃなくて」
さすがにこれ以上名言するのは恥ずかしいので声が自然と小さくなる。拗ねた子供みたいで自分でも嫌だったが、兵部の言葉に思い当たった真木がまた慌てはじめた。
「あの、はい、それじゃ、中に入りませんか?」
「さすがの僕もここじゃしないよ」
「です、よね。――では、失礼して」
兵部を抱いていた腕が解かれたと思うと、背中と足下に手を差し入れていったん屈み込んでから両腕で兵部を抱きかかえる。他人に見られるのは非常に恥ずかしい体勢、俗に言うお姫様抱っこというやつだ。
「……こういう真似は恥ずかしがらずにやれるのにねぇ」
「どうしました?」
「ううん、なんでもない」
真木の首にしがみつくように腕を廻して鼻先を耳のそばへと潜り込ませる。
暖かな腕の中で、頬に伝わる真木の鼓動が、いつもより少し早く脈打っているのが感じられた。
<終>
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お題:「深夜のベランダ」で登場人物が「見上げる」、「風」という単語を使ったお話を考えて下さい。
連日暑いので寒い話を書きたくなった結果がこういう感じであります。
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