■徴 kiss mark■
兵部の静養のために来たはずが、まるで観光旅行のようになってしまったことに対しては笑うしかない。
なにしろ季節は初秋、所は北海道、某渓谷に面した温泉宿。どこからどう見ても温泉客である。
実際温泉はすこぶるよかった。内風呂と外風呂の規模が大体同じで、露天は湯船が庇のかかったものとそうでないものの二つに分かれていて今は夜だから月見が楽しめる。
日頃の疲労を脱ぎ捨てるように湯船から上がると、心なしか身体も軽くなった気になる。
脱衣室で浴衣を羽織って部屋に戻ると、そこには二つの人影があった。
「少佐、葉」
真木は驚く。前者の兵部は今回乞われて同室にしたが、葉は別室だったはずだ。
乞われた、というのは、体調があまり芳しくないのを真木以外に極力見せたくないということだったのだが、こうして葉を部屋に入れているということは体調がいいということなのだろうか。
「あ、真木さん」
だがその葉は二つ並んだ布団のうち真木のもののほうに入って寝そべっており、あまつさえ頭を兵部が横になっている布団に横付けしている状態だ。
「もう帰ってきちゃったの?つまんなーい」
「こら、葉」
真木のほうへ振り返った葉を、上半身を起こして兵部が諫める。
「……邪魔なら部屋を変えるが」
精一杯何でもない風を装った声で譲歩を提言してみるが。
「あーいいよ真木、葉のわがままだから」
「なんだよー、ちぇー。わかったよ、戻りますよ」
バサリと大きめのリアクションで布団から起き出すと、そのまま入口の真木に「おやすみ」と声をかけて葉はあっさり部屋を出ていった。
「いいんですか、俺は別にあちらの部屋でも構いませんが」
「寂しいこと言うなよ」
「しかし」
ずいぶん距離が近かった――そう言おうとして、若干着崩れた兵部の浴衣の襟元に、紅い徴を見つける。
「――!」
それはキスマークに見えた。真木は混乱する。相手は一人しかいないだろう。
「どうしたの?真木」
「いえ……」
兵部が、葉と。少なくとも自分はそんな目立つ場所に付けた覚えはない。
動揺を悟られまいとするが、目線が釘付けだったのだろう、兵部がちらりとその場所を見る。
「あ、これ?」
「はい……」
白い指が紅い徴を指さす。そしてクスリと笑うと。
「葉がね、つけてったんだよ」
「……そうですか」
心臓が破裂しそうだ。なのに首から上は冷たくて頭は妙に冴えている。
「ちょっと、真木」
「何か」
自分の変化を見破られまいと努力しながら兵部の声に答えると、なぜか不機嫌そうな顔をしている。
「こっちおいで」
「……はい」
掌を上に向け指先で手招きされるままに場所を移動すると、葉が寝ていた布団の上に座ることになる。兵部とは手を伸ばせば触れられる距離だ。
「おかしいと思わない?」
「何がです?」
「よく見てよ」
と、兵部は浴衣の前を大きく開く。正直見たくはなかったが、兵部が見ろというのなら従うまでとじっと徴を見つめる。
「どうかしましたか?」
「どうか、じゃなくて。ああもう、もっとこっち来て」
「……」
更に呼び寄せられて、ぐいと手を掴まれたかと思うとキスマークのところに手を運ばれる。
「触ってみて」
「……はい」
言われるままに触るが、これがどうしたというのだろう。
「もっと。擦って」
「はい?」
思い切って擦ってみると、紅い色が少し伸びて薄くなる。
「!?」
驚いて目を丸くすると、兵部がニヤリと笑って、紅い徴をごしごしと掌でこする。すると間もなく跡は綺麗に消えてなくなってしまった。
「え?」
「あは、あははははは」
兵部は楽しそうに笑うと、目尻に浮いた涙を拭く。
「化粧品だよ、紅葉の。葉がおもしろがって悪戯してったの」
「じゃあ」
「何もなかったって。当たり前だろ。君がいるのに」
「ですか……」
「こんなのに騙されるの、君ぐらいだよ」
真木は思っている。兵部が真実望むなら、自分はいつでも身をひくつもりだと、思っている。いや思っていた、今までは。
なのに他の人間と接触した可能性を目の当たりにして、動揺して。
こんな弱い自分を兵部は受け入れてくれるのだろうか?
「しかし、つまらないな君は」
「え」
兵部が真木を見ながらまた不機嫌そうな顔に戻る。
「化粧品とキスマークじゃまったく違うことにちっとも気付かない、というのもそうだけど、なんなんだよその顔」
顔、と言われて心臓が跳ねる。やはりみっともなく嫉妬する顔を見られてしまったのだろうか。もしかして今もそんな顔をしているのか。
と、真木の頬をかすめるように兵部の腕が通り過ぎて、真木の髪を掴む。そのまま力任せに引っ張られてしまう。
「いたっ」
「少しはそんな風に痛い顔でもしたらいいのにさ、仏頂面で、何でもないみたいな顔しちゃってさ」
「え……」
「僕は本当に、つまらない男を気に入ってしまった」
真木の顔に、兵部の顔が近づく。
頬が、瞼が近づいて、睫毛が影を形作って。
ゆっくり瞼を閉じると、想像したとおりの感覚が唇の上に降ってきた。
そのまま身体をかき抱くと、兵部は真木の腕に全てを委ねてくる。
動揺したのは、嫉妬したからだ。嫉妬したのは、独占したいと思っているからだ。
その想いを満たすにはこれしかないかのように与えられたキスを貪りながら、真木はエゴにまみれた心のどこかが満たされていくのを確かに感じていた。
<終>
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お題:「夜の旅先」で登場人物が「騙される」、「跡」という単語を使ったお話を考えて下さい。
こういう書き方するとあれですね、この真木さんは自分の恋とか愛とかはエゴにすぎないとか思ってそうです。他人のはちゃんと尊ぶのに自分のだけ罪悪感を持っていそうな感じですね。
恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲームってミスチルも歌ってたし!(懐かしい)
いつも拍手ありがとうございます~。