■クオリティ・オブ・ライフ quality of life■
表示板を睨む真木の目の前で、チン、という音を立ててエレベーターは止まった。表示は4階。
その時、人を運ぶ箱の中に入った真木の後ろから、駆け込むようにしてエレベーターに乗り込んできた者がいた。それはよく見知った顔。
「オカマノフ大使。どちらへ?」
「やぁね、マッスルって呼んで――1階をお願い」
操作盤に近い真木が1階を押す。真木の用件も1階だったのでちょうどいい。
「ネェ、真木ちゃん?」
「なんだ?」
ガタン、と軋む音を立ててエレベーターは1階を目指す。由緒あるロビエト大使館の建物は文化財として大変貴重なものだが、そのかわり年代物のエレベーターは動く速度が非常に遅い。その歴史ある遅さに思いを馳せているうち、隙ができた。唐突にマッスルに顔の両側を挟まれたかと思うと、ぐい、とマッスルの側を向けられて、その顔が近づいてくる。
「!?」
逃げる暇はなかった。あっという間に真木はマッスルに唇を奪われる。
「――人生、楽しんでる?」
「マッ――」
一瞬だけ唇を離したマッスルが真木に問いかけようとするが、答えも待たずして唇を割って舌が侵入してくる。
「!!」
冷たく塗れた感触に、真木の思考と身体の両方は固まった。たっぷり10秒固まった。
その間も愉しげに口腔内を嬲る舌の蜜のような甘さに、ふと我に返ると。
「!!!!」
マッスルの両肩を掴んでその体を無理矢理引きはがす。マッスルが不満げに唇を尖らせた。
「ひどいな、真木……ちゃん?」
「――少佐!少佐でしょう!?」
顔を真っ赤にしてそれ以上の言葉を失った真木を、マッスルが舌なめずりしながらまた近づいてきて――。
その姿は、マッスルより一回り体躯の小さな銀髪の少年の姿に変わった。
「なぁんだ、気付いた?」
ヒュプノを解いて首に手を廻しながら見つめてくる学生服姿の兵部に、真木は真っ向から立ち向かう。
「わかりますよ!なな、な、なんてことするんですか!」
「いや、ちょっとマッスルの姿で大使館内を散歩してたら、君を見かけてね」
「散歩、って……だからといってこんな……!」
あたふたと両手を所在なくばたつかせる真木に対して、兵部は相変わらず笑っている。
「皺」
「はい?」
「眉間に皺ができてた、さっき。エレベーターを待ってる時」
言いながらつま先立ちで真木の眉間にキスをする。
「あまり根をつめないでね。でないと僕は、働きづめの君が人生を楽しんでるかどうなのかが不安になってしまう」
「……はい」
その時、チン、という音とともにエレベーターが1階に到着した。
「!」
更に慌てる真木に。
「じゃあ僕はこれで」
と兵部はウインクを一つ残して、エレベーターの入り口から漏れてくる昼の光に溶けるようにかき消えた。
エレベーターの入り口付近に他に人影はない。
「今日は……船に戻るとするか」
無意識に自らの唇に触れながら、真木は「人生を楽しむ」ために、大使館内における今日のタイムスケジュールを調整し直す決意を固めていた。
<終>
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お題:「昼のエレベーター」で登場人物が「見つめる」、「蜜」という単語を使ったお話を考えて下さい。
姿が変わってもキスすりゃ分かるよねというお話。元ネタはあれですね、影武者徳川家康。
クオリティ・オブ・ライフって言葉はなんだか定年後というイメージが強いですがこういう使い方もありじゃないかなーと自己弁護。