■まどろみ Catnap■
声が聞こえる。
(――起きなよ、真木)
自分を呼ぶ声だ。控えめに、けれど心引かれるように響く声が、真木を心地よい揺れと微睡みの中から引き上げる。
「真木」
声の近さに驚いた後に、視覚が戻ってくる。自分を覗き込む漆黒の瞳、早朝の車内の光に包まれた細い銀髪に黒い学生服姿の少年が真木を覗き込んでいた。少しだけ笑いながら。
「しょ、少佐っ!?」
どこか儚い笑顔の意味が分からなくて、けれど互いの距離があまりに近くて後ずさろうとするが、すぐに背もたれに腕がぶつかってしまい、自分が深々と車のシートに座りこんでいることに気付く。
どうやら車の後部座席で眠りこんでしまったらしい。前日の徹夜が祟ったか。しかも、目覚めた時のポーズから考えて、どうやら隣に座っていた兵部の肩に頭をもたれさせるような姿勢で眠り込んでしまっていたようだ。
「起きたかい?」
「起きました。その……失礼しました」
「ごめんね、もう少し寝させてあげたかったけど、もうすぐ目的地だし、僕の肩もちょっと疲れてきたからさ」
「すみませんでした」
「いいよ、気にしてない」
そして真木から遠い方の手で真木の髪を撫でる。側頭部から、首筋にかけて何度か。
「どうしました?」
「なんでもないよ」
と兵部は言うものの、何故か兵部の手の感触に懐かしさに似たなにかを感じずにはいられなかった。
時は一時間ほど遡る。
兵部に真木、そして葉はリムジンを前に会談していた。
「だから、今日は俺が運転するってば」
「しかし……」
もともとリムジンの運転手は真木がメインだったが、中学校組が通学に使うようになってからは葉のほうがよく使うようになった。今まで事故を起こしたこともないし、いい頃合だと兵部は思う。
「真木、葉に任せよう」
「そうそう、それに真木さん、昨日徹夜だったんでしょ?休んでればいーじゃん。着けば起こすからさ」
葉も自分と同じ事を考えていたのだと知って兵部は少し嬉しくなる。そうなのだ。ここ数日の激務で、真木は疲れきっているはずなのだ。少しでも休ませたいと思うのが親心というものだろう。自分で言うと嘘くさくなるので口には出さないが。
「二人がそう言うのなら」
真木はしぶしぶとリムジンの後部座席に収まる。と、兵部は開いている進行方向逆側のシートではなく、ねじ込むように真木の隣に座った。
「?」
きょとんとした目が、まるで犬か何かのようだ。何故自分が隣に座ったのかまったく気付いていない様子に、心の中で悪態を付く。
「隣に座ったら何か困る?」
「いえ、そんなことはありませんけど」
「ならいいじゃん」
兵部が言うと真木は頷いて、そのまま黙り込む。
車が発進してすぐに、真木は膝の上にビジネスバッグを置いてノートパソコンを取り出そうとするが、兵部は手を伸ばして真木の手を止めた。
「どうしました?」
「仕事禁止」
「は?」
「車の中でモニタの小さい字なんか見てたら車酔いするだろう?大人しく座ってること」
「……はい」
真木は不満そうだったが、溜息をひとつついて兵部の言うとおりビジネスバッグの口をとじると座席の脇に追いやった。
「まったく、ワーカホリックなんだから」
「自覚はないのですが……」
「だよね。だからこそタチが悪いんだよ、君の場合は」
「……」
兵部が肩をすくめた時だった、肩に何かが当たった。次いで、ふわっとした感覚が頬にかかる。
「!?」
目線だけそちらに向けると、真木が兵部の肩によりかかっていた。
「真――」
真木、と名を呼ぼうとして思いとどまる。静かで規則正しい寝息が聞こえて来たからだ。真木はどうやら眠ってしまったようだった。
見たことか。本人が思っている以上に真木は疲れているのだ。だからこんなあっという間に睡眠に落ちる。
「君って子は……」
自らの頬に落ちる真木の髪をそのままに、真木に貸した肩とは反対の手で真木の頭を撫でる。腰まである長い髪。能力の発現のために伸ばさざるを得ないこの髪は、見た目よりもやわらかな質感を兵部の掌に伝えてくる。
「……たまには頼ってくれてもいいんだよ。僕にも、葉にもね」
いつからだろう。長男格として真木が葉や紅葉、そして兵部のために負う労を厭わなくなったのは。まるで忠実な番犬のように――いい意味で――黒くて丸い目を輝かせながら、その瞳に忠実なる決意を宿して。
もちろん、全く文句を言わず疑問を抱かず、という訳ではない。真木は犬とは違うのだ。
それでも、兵部が刑務所に収監されていた間に、パンドラをここまで大きくしたのは真木の手腕によるものが大きい。
「いい男に育ったね、君は」
表面だけでも口だけでもなく、鉄のような意志を持ってものごとに当たる真木の姿を見て、本当に成長したなと思う。
あの時も、そうあの時も、などと考えながらゆっくりと髪を梳き続けてどれくらい経っただろう。少し肩が痛いかもしれないと思うようになった頃、運転席の葉が声をかけてきた。
「ジジイ、真木さん、静かだけど起きてる?」
突然の声に驚いて真木の髪に触れていた手を咄嗟に引っ込めた。
「僕は起きてるけど――あとジジイはやめてくれないかな」
不自然に心臓がドキドキしている。葉が後部座席の自分と真木を見ていたとは思わないけれど、それでも罪悪感に似た感情はわき起こる。
「悪ィ悪ィ、もうすぐ着くけど車は建物の正面につけていい訳?」
「そうだね、真木に訊かないと。起こすから、待ってて」
そして真木を揺すると、なるべく優しく声をかける。
「真木――起きなよ、真木」
目が覚めたら真木の髪の毛のあの感触に触れることは叶わなくなる。それが少し悲しいけれど、それでも兵部は真木の名を呼んだ。
「真木」
真木が身じろぎをする。目が覚めたらどんな顔をしてやるべきか迷いながらも、その覚醒を兵部は見守った。
<終>
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お題:「早朝の車内」で登場人物が「髪を撫でる」、「犬」という単語を使ったお話を考えて下さい。
寒いと眠気が通常の三倍になりますよね。たまには寝てしまう真木さんなんかもどうかと思いこういう形になりました。
お気に召しましたならばぽちっとな。