■忘れ物 slap■
パシン、と小気味よい、しかしそれを聞く者達にとっては重い音が朝の廃墟に響く。
それは兵部が葉の頬を張った音だった。
「僕がどうして怒っているか分かるね?」
「けど、ボス……」
跪いた葉は痛そうに頬を押さえて、それでもどこか不満を隠しきれずにいる。対する兵部は鋭利なほど冷静な顔で立ったまま葉を睨み付けている。
「君は僕との約束を破った」
「でもそれは……!」
「言い訳ならいらない」
用心しろ、とあれほど言ったのだ。今回のような一見簡単そうに見える取引の中にこそ、恐ろしい罠が仕掛けられているものだ、とも。
今回の仕事はとある民間軍事会社内の強硬派と保守派の内部紛争。強硬派は超能力者部隊の設立に反対する保守派を排除したがっており、そこにパンドラが裏から介入した。そしてパンドラが支持した強硬派の工作が終了し、その連絡をしに葉が本社ビルへ出かけて行った、それが昨日の夜。
一人で訪れた葉に強硬派の副社長は何度も念を押した。他に情報は漏れていないか。今日ここに来たのを知っているのはお前一人か。パンドラには報告しているし今日のことだって兵部はじめ幹部は知っているのだから、正解はどちらもノーだったのだが、面倒なので誰にも何にも言っていないと答えたら、急に銃を向けられた。――葉は強硬派にとって「消し去りたい最後の証拠」だったのだ。
葉が適当なことを言いながら超能力の発現のタイミングを見計らっていると、後ろから呻き声が聞こえた。振り返るとそこに兵部がいた。呻き声の主はいつの間にか葉の背後に忍び寄ってきたボディガードらしき男で、今は兵部の足下で倒れ伏している。そして兵部の手にはボディガードから奪った銃が握られていた。
あとは簡単だった。兵部がその銃で副社長を撃って、全てを知るものはいなくなった。明日には新聞に載るだろうが、陽の昇る頃には兵部も葉も郊外の廃墟へと居場所を移していた。
廃墟には他に紅葉と真木が二人を待っていた。
「真木、助かった。君が葉を見ていてくれなければ、いかに僕といえど間に合わなかった」
「強硬派が証拠を排除するなど不穏な動きがありましたから。俺より、少佐を迎えに行った紅葉を褒めてください」
「あたしはただの伝書バトだっただけよ。けど、無事でよかったわ、葉」
真木からの連絡を聞いた紅葉が、自分が現場に行くよりも近くまで来ていた兵部に伝えて助けに行ってもらった方が早いと判断するのに要した時間は十秒とかからなかった。同時に真木もまたビルの裏口から葉のいる部屋へと階段を駆け上がっていたが、その途中で、深夜で無人のはずのビルから銃声を聞いた頃には、兵部が全てを終わらせていた。
「紅葉、葉を甘やかさないでくれ」
「そうね。葉にはまだ忘れ物があるしね」
「忘れ物?」
紅葉の口から出た身に覚えのない言葉に葉が問い返すと、真木が目線を下に落として呟いた。
「気付いていない、か」
「なんだよ、なんのことかわかんねーよ……って、おいジジイ!」
兵部が宙に浮くと、紅葉がそれにつき従って浮き上がる。
「葉、これは自分で気付かないといけない、大事なことなの」
「君はもう少しそこで反省しているんだね」
真木と葉とが残されて、紅葉と兵部はその場からテレポートではなく朝焼けのそらを横切る形で飛び去ってしまう。
「……真木さんも俺のこと呆れてる?」
「誰にでもミスはある。大事なのはその後だ」
腕組みしたままの真木の表情も硬い。
「叩いた方も痛いものだ」
それが兵部が葉を叩いたことだということはわかる。けれど、何を言えば兵部の機嫌が直るのかがわからない。
「わかんねーよ」
口に出すと、自分がひどく理不尽な状況に置かれているような気がしてくる。
「本当にわからないのか?なら思い出せ。少佐は今回の任務の前に何か言ってなかったか」
そう言われると心当たりはある。
「……約束したんだ。危ない真似はしない、注意は怠らないって」
「『命令』でなくて『約束』したんだな?」
「たしかに言われたとおりにはならなかったけど――あ」
そういうことか。葉が両手で膝をたたいて立ち上がると、真木が珍しく笑っている。大人の余裕を感じさせる、葉にとっては時々少し嫌味に見える表情だ。
「真木さん、サンキュ」
言うと葉は超能力で飛び上がり、兵部と紅葉を追った。
きっと真木が追いついてくる程度でしか移動していないはずだ。その判断は正しかったらしく、宙を飛ぶ二人の姿が見えてきて、葉は声を張り上げる。
「ジジ……じゃなくて少佐ー、紅葉ー!」
先に振り返ったのは紅葉で、次に兵部が向き直る。
「あの……俺」
「紅葉、先に戻ってくれるかい?」
「了解」
兵部に言われたとおりに紅葉がテレポートで消え去って、残されたのは二人きりだ。
朝焼けに染まる兵部の表情はまだ硬い。葉は一息つくと、一気に言葉を紡ぎ出した。
「俺、約束したのに守れなくて、悪かった」
どうしてこの一言が言えなかったんだろう。
「心配させて、ごめん」
「でも」、とか「けど」、とかばかり言っていた。自分のことしか考えていなかった。
心配をかけたという自覚に足りなかったのだ。
「ちゃんと以後気をつけるから」
ごめん、の一言を言うのにこんなに回り道してしまうなんて。
「――わかればいいんだ」
朝焼けに染まる白磁の肌はしかし、暖色の日の光を浴びてもどこか表情が硬い。
「君を失うかと思った」
「それも、ごめん」
兵部の肩に手を添えると、不思議なことに兵部は逃げも避けもしなかった。だからその腕を引っ張って肩を抱くと、掌を心臓の上に添えさせた。
「俺の心臓、まだまだピンピンして動いてるだろ?アンタが助けに来てくれたおかげで、俺はまだ生きてられるから」
「そうだね」
儚げに微笑すると、猫の子のように兵部が葉の胸元に顔を近づけるように身体を密着させてきた。
「お、オイ、ジジイ?」
「ジジイはやめろって言ってるだろ――聞かせてよ、君の心臓の音」
「あ――うん」
罪悪感の中に少しだけくすぐったいような気持ちが混じる。これが生きるということなら、まだまだ自分は生きていたい。
自分の心臓に耳をあてて、その鼓動を確かめたいと思ってくれる人がいるというのなら、生き続けるのも案外悪くないと思えた。
「ありがと……助けてくれて」
「うん、無事で、よかった」
胸の位置で揺れる銀色の髪をゆるく梳いても、兵部はじっと葉の生きている音に耳を当て続けていた。
<終>
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お題:「朝の廃墟」で登場人物が「約束を破る」、「銃」という単語を使ったお話を考えて下さい。
せっかく銃・約束という素材があるのだからもっとふくらませたかったのですが、この程度が限界でした。葉×兵部と言うほどでもないですし、もしかして気が向いたら後で書き直すかもしれません。(今の段階のものはそのまま掲載している予定です)
クリックで救われる命が(以下略
お返事